不器用にでも
たとえば同じ音楽を聴いたり、同じ映画を観たり、そんなことで解消できるぼくの孤独。
あの漫画途中までは面白かったのにねえ、だとか、えっあのライブぼくも行ってんだよ、だとか、そんなことで得られるつながり。
そんなことでしか消せない不安。
どうしてもさみしい夜に音楽を聴いて、どうしてもさみしい夜に音楽を聴いてる自分に酔うことでしか誤魔化せない。
あの娘は別にぼくのことを嫌いとかそういうわけじゃないって何度も言った。
でももちろん好きとかではないとも言った。
きっとあの娘だけじゃない、ぼくがあの娘を好きだったからあの娘のことばかり取り上げてしまうけれど、周りのだれかれもそう思ってるはず。
好きの反対は嫌いじゃなくて無関心だなんてくだらない言葉があるけど、そうは思わない。
好きの反対はやっぱり嫌いだ。
でもあの娘の無関心も、みんなの無関心も、それは無関心じゃなくて“嫌い”のあらわれだ。
大人だから嫌いって言わない、ズルいから嫌いって言えない。
自分は嫌われたくないから嫌いって言えない。
きっとぼくもそう。
心の奥では大嫌いなあいつのことさえ、口に出してはっきり大嫌いだなんて言えない。
言う必要もない。
だから、好きって言葉くらい簡単に言えれば良いのに、簡単に言ってしまうのもよくないらしい。
不器用にでも生きられるけれど、このままじゃ不器用にしか死ねない。