銀杏BOYZとぼく
高校一年生のとある日、友達の家でだらだらと漫画を読んでいたら、友達がむくっと立ち上がりコンポにCDを挿れた。
汚くてうるさくて最初はなんだこれと思った。
戦争反対 戦争反対 戦争反対 戦争反対
戦争反対 とりあえず 戦争反対って言ってりゃあいいんだろう
うわーなんかすげえこと歌ってんなあ。
音楽ってなんだかパワーを持ってるんだなあ。
偏差値2くらいの感想しか浮かばなかったけど、自分自身でもずっとわからなかった心臓のすみっこの方にある黒いもやっとした何かを肯定して認めてくれたような気がして、なんだ、それでいいのかなんて思ってしまった。
「そのCD貸して!」
おじさん達が甲本ヒロトに影響を受けたように、きっとぼくもそうだった。
銀杏BOYZは、僕たちは世界を変えられないと歌うけど、しっかりぼくの世界は変わってしまった。
毎日毎日銀杏BOYZを聴いた。
文化祭でへたくそなコピーバンドもやった。
童貞もこじらせきった。
峯田和伸がそうしたように、たくさんの音楽を聴いた。
みにくい恋もした。
叶わない夢も諦めなかった。
本物になれない自分にがっかりした。
そんなぼくの全部を無茶苦茶にした銀杏BOYZ。
男友達4人で行って、汗とよだれにまみれた。
アンコールで聴いた駆け抜けて性春は、多分僕の人生で何かの1番であり続ける。
記憶の中でどんどん薄くなってくそのライブで見た光景と、しっかりこびりついて落ちない汚れ。
それから何年も待った、ずっと待った新しいアルバム。
その2枚が出る頃にはぼくの知っている銀杏BOYZはなくなってしまった。
峯田和伸ひとりになってしまった。
それでもあの4人が残してくれた作品だけは生きていて、何度も何度も何度も何度も聴いた。
聴けば終わらせられると思っていたぼくの青春とか思春期とかそういう何もかもが、またぐちゃぐちゃになるまで何度も聴いた。
何が間違ってて何が正しいのかはわからないままだけど、きっと、多分、いままでも、これからも、間違ってるのはぼくの方だと思う。
そんな間違いを認めてもらえる気がした、2014年の8月20日。
あの日以来の峯田和伸。
3人足りないけど銀杏BOYZ。
「峯田~!」と叫ぶ女の子達の柔らかい肌と香りに潰されそうになりながら、ステージを見続けた。
アコースティックギターたった一本で、最後までひとりで歌った一曲目は人間。
他にもたくさん歌った。
当時大好きな娘がいたぼくは夢で逢えたらがイヤにささったりして、そのときだけ歌った新曲「なんでこんな好きなんだろう」もバカみたいに良くって、ああ銀杏BOYZにもう一度会えたんだなあって思った。
それから何度かひとりぼっちの銀杏BOYZを観た。
最初はやっと帰ってきたと思ってた銀杏BOYZは、やっぱり昔の銀杏BOYZではなかった。
弾き語りで何度聴いても、たった一度観た4人の銀杏BOYZは越えられなかった。
愛地獄の劇場公開。
スクリーンの向こうにはあの銀杏BOYZとひとりぼっちの銀杏BOYZがいた。
大勢が行儀良く座って静かにしながら銀杏BOYZのライブを観るなんてとても奇妙な光景だ。
映像の中には閉じ込められているはずの4人の銀杏BOYZも、あのとき観た銀杏BOYZとはやっぱり違った。
そしてもう何年ぶりのツアー、ZEPP DIVERCITY。
バックバンドを従えて銀杏BOYZを名乗っていたけれど、あれは峯田和伸のカラオケだった。
そりゃ死ぬほどグッときた。
ずっと聴きたかった曲も聴けた。
でも、もう何の曲をやってたか忘れてしまった遠い記憶の中でも、あの4人のライブは“あの4人”での映像が頭に残っているのに、つい最近観たばかりの銀杏BOYZは峯田和伸1人しか映像に残っていなかった。
確かめたくて、中野サンプラザの公演も観に行った。
指定席のホールで観る、峯田和伸のカラオケ。
行儀良くぼけーっと立ってる2000人。
ぼくもその中のひとり。
目の血走った若い男よりも、やけに可愛い女の子が多かった。
これからもライブがあればたまには行く。
新曲を出せばCDも買う。
ただ銀杏BOYZは終わってないけど、あの4人のバンドは終わってしまったんだなあって、どうしても悲しくなる。
銀杏BOYZを聴いてぼくは人生が止まってしまったのに、銀杏BOYZも同じようにずっと止まったままだと思っていたのに、もしかしたら一緒に変わっていけるかもと思っていたのに、おいてけぼりから救ってくれたと思っていたのに、気づけば銀杏BOYZにもおいてけぼりにされてしまった。
いつかぼくがもっとおっさんになって、あの4人がおじいちゃんになりかけくらいの頃に、もう一度4人でライブでもやってくれないかな。
そしたら今度こそ青春を終わらせられるかな。